要約

 キャラクタービジネスの適切な保護のために、各種パブリシティー権の適切な法制化(明文化、著作者と対等な権利化)をしてほしいです。
 その上で、商業目的でない個人二次創作をあらかじめ許諾しておいてほしいです。
 さらに、著作権の曖昧な部分を、個人でもしっかり勉強すればわかるよう定義を明らかにして、その他の産業財産権と同等の保護をめざしてしていくべきです。
 合計11の施策案でコンテンツビジネスの包括的保護を訴えています。

タイトル 著作権および周辺権の現状と課題
             筆者 寺坂 真貴子
目次 
1.最初に〜コンテンツ大国、クールジャパン
2.日本の著作権制度と問題点
3.著作権法・周辺法の改正案
4.著作権の未来〜デジタルコミュニケーションとしての著作権
1.最初に〜コンテンツ大国、クールジャパン
 日本政府は2010年の経済産業省製造産業局「クール・ジャパン室」創設よりコンテンツ大国、クールジャパンを目指しています。クールジャパン施策の下、国内で公表される小説・マンガ・アニメーション・ゲーム類(=コンテンツ)のタイトル数も爆発的に増加し、放送コンテンツ海外輸出額が3年で倍増している上に、それを下支えるファン活動(例:同人誌即売会、いわゆるコミケ)も盛んになり、2015年にはとうとう官房長官の口から「コミケ文化」という言葉が発せられるにいたりました。政府から「TPPへの加盟に起因する著作権の改正が、コミケ文化に不利にならないようにする」との言及があったわけです。http://blogos.com/article/108823/
 そもそも日本人は八百万の神をあがめます。自身に直接に御利益のある農業神や商業神はどの文化でもあがめますが、日本人は唯一神をつくらず、つくも神や化け猫、神使としての蛇や狐、熊やフクロウ(アイヌ民族)、貧乏神、おてんとうさま(天候神)、お米にも7人の神様、など身のまわりにある万物を擬人化し尊重する(アニミズム)素養が広く存在しました。すなわち物(有体物、無体物)に感情を期待し読み取る、おもいいれ性の高い国民性が存在していたといえます。
 また普遍的に子供は架空のキャラクターと身のまわりの人間を同列に扱うものです。成人はもちろんはっきり区別がつきますが、その上で文化が成熟すれば成人でも架空のキャラクターを敢えて実在しているかのように扱う娯楽も自然に生じます。実在と非実在の区別を薄めて非実在にリアリティーをあたえ、身近でない芸能人・政治家や、多くの創作キャラクターを(実社会に差し支えのおこらない範囲で)身近なものとして扱うことは、昔から、ドラマを通した学びであり精神のリクリエーションです。現代の日本社会では、作品が広く周知されファン活動がもりあがれば、架空のキャラクターにも人格を認めます。たとえば、有名な世紀末マンガ「北斗の拳」のキャラクター「ラオウ」について、2013年3月18日に、映画の告知を兼ねて実際の法要が営まれたこともありました。
参照url http://www.oricon.co.jp/news/43904/full/
https://www.facebook.com/permalink.php?id=342631189187266&story_fbid=591371550891941
 枚挙にいとまがありませんがあと3つだけあげますと、サンタクロースもキャラクター化され「居るのと聞かれたら、自分がなるもの(島本和彦)」「NORADやGoogleのサイトで飛行軌跡を追跡できる」と一定の仮想リアリティ化されています。名古屋地域の大型スーパーの多くには秋シーズンになればシャオロン・パオロン・ドアラ像を添えたドラゴンズ神社が設置されます。後楽園にいけば(整理券は必要ですが)仮面ライダーと握手できます。
 他国における信仰の状況からすると一部は不謹慎であり禁忌にあたるものですが、無信仰者の多い日本では、遊び心を体現するキャラクターを身近におき、実在として扱い、場合によっては神格化までしつつ商業利用してしまう(サンタは逆コースですが)ことで、子供の夢をくずさず、さらに現実をわきまえた成年者のレクレーションをも創出することになってきました。潤滑な社会活動にさしつかえない範囲に不謹慎さを発揮し、町おこし、娯楽産業などとつなげて楽しむ点については、他の文化圏より日本に一日の長があるといえるでしょう。
 また教育的文化的観点からしても、平和な社会の中で、戦争や飢餓や革命までを含むフィクションの読み手として、特殊な物語を一般的知識で補強し深読みをしていく行為は、研究行為でもあり、ドラマチックなストーリーの人生勉強にもなるわけです。人格をしっかりと表現された創作キャラクターとともに思考実験を経験し、「あのキャラクターのセリフでいえば…」と引用やパロディを用いたわかりやすい表現で、相互の立場の理解を深めることは、人生を豊かにします(例:2014年流行語大賞トップテン入り「ありのままに」はディズニー映画由来)。また他に相互理解にキャラクターを役立てる例として、市町村ごとに地域の特徴を擬人化した「ゆるキャラ」があります。これらは公募され、自治体という公的機関が所有し権利管理するコンテンツであり、日本社会の象徴キャラクター重視の一つの表れでしょう。
 もちろん、ここで例示した架空キャラクターのひろまりは、著作物・表現物の象徴的な一例にすぎません。音楽、映画、コンピュータープログラム、論文、記事などなど広範にわたる創作で、より複雑な思想や感情(のみならず事実やデータも)の表現や活用が日々切磋琢磨されています。
 そして今、知的労働の成果を保護するため、あらためて著作権が注目を浴びています。

2.日本の著作権制度と問題点
 著作権は、わたしたち弁理士にとってはなじみ深い知的財産権の一つです。知的財産は動産、不動産に次ぐ財産である、無体財産です。「発明や創作といった知的労働の成果として生じる、直接手に触れられないが確実に存在する価値」を、知的財産権制度はなんとか保護しようとしてきました。
 ただし、著作権は、特許権意匠権に比べて保護が手薄になっております。
 知的財産権はどれも自然権であるにもかかわらず、なぜ著作権だけ保護が手薄か。
 いろいろ要因はありますが、まず形から論じるとすれば日本の著作権制度があげられます。
 現状、比較的手厚い保護をうけている知的財産の例には特許がありますから、わかりやすいよう、特許権著作権で比較してみます。
 特許権では方式主義・先願主義・審査主義を採用していますが著作権は無方式主義で、どこかに出願する必要がなく権利が発生します。(なお、これは日本商標制度が登録主義、米国商標制度が使用主義である関係と少し似ております)。さらに、特許権は新たな判例がでれば、審査基準の形で特許庁審査官へ、また必修研修の形で弁理士へ、双方へつねに研修の形でフィードバックされます。
 日本著作権制度は(表現分野にもよりますが)無方式主義を取ったこと、また保護対象を詳しく限定せず、いろいろな表現を広くうけいれようとしたことにより、権利発生が容易ですが、結果として相対的に権利確定のインセンティブが薄く、厳密性、独占性が薄れた曖昧な形で概念と用語が先行して広まっています。
 (なお、方式主義と似た制度で、文化庁への著作物登録制度はありますが、他制度・他国と比較してずっと保護力が薄いです。
http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/toroku_seido/ 
ここでいう登録制度、保護力のある他国とは、追求権
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E5%8F%8A%E6%A8%A9の存在する国などです)。
 日本著作権制度は、大きくわけて3者、すなわち
「創作者(創作物を創作した者であり、著作人格権者であり、初期の著作権者である。)」、「消費者(創作物を受取り、味わい、好評や尊敬やチケット代金など何らかの形で対価を払う者。読者や視聴者など創作物を受取る者を全て含む。)」、そして
「政府」の、三者三様の要請が、相互に働きかけあってこのような形になっているわけですが、現状の法律についてみてみると、改正も十分とはいえず、用語も古くわかりづらく、条文内の定義も曖昧です。
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 わかりにくい法文例
○1 著作権著作権法に規定される権利の総称の意味が通称としてひろまっているもの)と著作権(第17条に規定されるもの。著作者の財産権部分)の外見上の区別がない。
○2 「著作者(第1条等)」と「著作権者(第30条以降)」と「著作の名義(第31条等)」の定義が明確でない。特に著作者(2条二号)と著作権者(2条、61条をみても定義がみあたらない。30条でいきなり登場する)の区別が法文内で明確でない。(特許では発明者と出願人と実施権者は適格条件をふくめて明確に定義済みである)。
○3 二次的著作物(第2条11号。変形、脚色、翻案など)と改変(第20条の同一性保持権の違反対象)の関係が明確でないため混同されがち。著作者の意に添わないものは改変であり、意に添うもの(27条翻案権を61条譲渡された)が二次的著作であるとの誤解をまねきかねない。実際は20条後半で意に添わないまでも合法な改変が定義されており、二次的著作(とくに翻案が混同されやすい)とは趣旨が異なることが伺える。
○4 コンピューターゲーム判例上「映画の著作物」に属する物であるが、判例法により「頒布権」が「消尽」するという説明自体が社会常識からするとわかりにくい。同様に、マンガ・アニメーションという言葉が出現しないためそれぞれがどの著作物にあたるかわかりづらい。(マンガは絵画及び脚本に類似するはずだが絵画にまとめられており、アニメーションは放映形態により映画および放送著作および有線放送著作に扱いが分割されている)、
○5 音声記録データのことを未だにレコード(第2条第5項等)、原盤録音者のことをレコード製作者(第2条第6項)という。
○6 定義の条項が複数あり、相矛盾する場合がある。第十条一項は「著作物の例示」で「おおむね」にすぎないのに、2項で「事実の伝達にすぎない雑報および時事の報道は、前項一号に掲げる著作物に該当しない」としており論理的に意味が不明である。しかも常識的には事実の伝達であっても堂々と著作物として扱われる報道が多数ある。(芸能人ブログでの結婚しました報告など)
○7 著作者は権利を「専有する(21〜28条)」との規定にもかかわらず、61条で権利譲渡(複数の相手への分割的な譲渡を含むと考えられる)、63条で著作物利用許諾が可能。消費者からみれば著作者よりは著作権者、利用許諾をうけた者のほうが複製権などの権利を専有・行使しているため独占排他権ではない。専有の規定の意味が不明であり、特に「専」の字はなぜ必要なのか常識では理解できない。
○8 著作物の利用許諾にかかる「利用」が定義不明(30条で例外だけが列挙)なため「利用許諾」と「著作権(翻案権・複製権など)の譲渡」との違いがわかりにくい。もし「利用」の定義に著作物の複製行為が含まれるのであれば、著作複製権の譲渡と利用の許諾は重複する行為となる。閲覧や通常の再生方法による視聴のみを指すのであれば明示すべきではないか。(なお特許ではライセンスを専用実施権、通常実施権にわけて十全な規定がなされている)
 など。
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 これらの結果、一般の創作者や消費者に通じにくい法文となっています。
 知財保護にしても使い勝手の悪い法律、それが知的財産権の中での著作権の位置付であるとおもいます。

 著作権をいつまでも使い勝手の悪いものにしている状況についてより詳しく説明します。
 ●1つには、創作者本人の意図があります。創作者は、まず芸術分野に詳しくならねばならないので、分野違いとなる法律のことを詳しく勉強する暇がなく、誤解にみちたまま、日々表現技法の研鑽と創作をつづけています。侵害トラブルがあれば最初の権利者として親告罪に起訴する義務があるのは創作者ですが、泣き寝入りか直接交渉が多く、よしんば弁護士をつけてしっかり勉強した上で訴訟にあたっても、判例が出るまで徹底的に粘った結果、「侵害者を起訴したこと自体が不当独占者のイメージで一人歩き」もしくは「裁判所に著作権侵害にはあたらないとの判決を受ける」との致命的な結果をもらってしまう例が多いです。そのようなlose-loseともいうべき不幸な結果を招くよりは、侵害者と話合い、お互いに金銭面と世評面で負担の少ない和解を好みます。あるいは弁護士を通して警告しただけで相手が逃げて消え失せ、別のところで同じような侵害行為を始める場合もあります。これでは有効な判例はなかなか出ませんしフィードバックもされにくい。創作者にとっての著作権法とは「イザというときにふりかざせることは知っているものの、刃がどっちをむいているかもわかりづらいため、極力抜きたくない伝家の宝刀」です。
 ●2つには、行政の傾向の問題です。特許庁審査官のような直接法律改正に携わる能力を与えられた公務員群が著作権ではあまり多くなく、審査主義でもないため、審査官がいない→最高裁などで有効な著作権判例が出てもガイドライン研修会などをフィードバックして施政方針を変える人手が行政側に少ないということになります。
 実際、文化庁サイト上に制度についてかみくだいたQ&Aをつくっても、著作権者の総意との整合がとれなくなりあっさり消えることもありました(例:2012年ダウンロード違法化についてのQアンドA http://gigazine.net/news/20120717-download-qa/ は、法律自体はかわらないのに、内容が業界の実情にそぐわないため消えました)。
 また、ゆるキャラの管理は今や地方行政に深くかかわっていますが、そこでもひこにゃん騒動のような著作権侵害がしばしば起こっています。
ひこにゃん騒動:http://nakayamalaw.cocolog-nifty.com/column/2011/01/post-dea5.html
 ここでは一度調停をうけたものの、さらなる彦根市の調停違反が司法により指摘される結果になりました。法律の取り扱いに長けている筈の地方公務員であっても理解しづらい・周知させづらい・合法を確信できないという状態であり、取り扱いにくい法律であるといえます。
 ●3つには、創作者と消費者、創作者と政府の間をつなぎ、利害調整すべき、創作物エージェント(出版社、音楽レーベル)さえも不勉強、不利用、または敢えて意図して著作権侵害を行っていること。
 筆者が最近驚いた事件でhttp://ir.kadokawa.co.jp/topics/20151224_c9mgz.pdf 「『からくり同心 景 黒い好敵手』 発売中止のお知らせとお詫び」のように編集者が小説原稿を無許可で改変した事件があります。あきらかに同一性保持権(二十条)の侵害にあたり論外ですが、業界も著作権について不勉強で、編集者間の口伝のような形で実務上差し支えがなければよいものとしており、保護努力をするにしても著作権法改正ではなく別の機械的な方法(たとえば電子記録メディアのコピープロテクトシステムなど)に頼る場合も多いです。
 ●4つには、司法および法学者からも厳密に見直したうえで改正主導権をもつことがなされてこなかったことです。筆者は最近の著作権侵害事件の判例を検討しましたが、どの判決も著作権法だけでなく不正競争防止法特許法、意匠法、プログラム回路保護法などでより強く保護できる権利を並行して検討しており、前述のどれかの保護対象にあてはまれば「著作権での保護対象にあたらない」とされることが多いです。またどれにもあてはまらなければセーフティーネットのような形でいったんは著作権として検討するものの、さらに「思想または感情を創作的に表現したもの」という著作権法2条の定義に縛られるため、せっかくの知的労働の成果(例:グラフ、プログラム、説明書)であっても「それ自体は著作物でない」という判断が下されることも判例上は多いです。
 なお法学者も、自らの研究活動や著作活動を著作権によって利用許可され、または保護されている筈ですから、改正の必要があれば適宜政府公聴会へ意見を提出しているなどと無意識の信頼をもっていましたが、http://d.hatena.ne.jp/saebou/20151221/p1 (ウィキペディア英日翻訳というきわめて学術的にも教育的にも意義の大きい事業を、東京大学講師の立場から行おうと検討したが結局諦めることとされた先生のブログ記事)の2〜 にあるように、大学享受や講師が自ら決定できるのではなく、大学事務室(=おそらく文部科学省)の法的判断に左右されており、著作権判例をつきつめて考えてはいない、むしろ考える余裕がないようです。大学という教育の場は著作権の制限外にある、「許された地」のようにみえますが、結局は法律の迷宮に陥っているようです。このことで、制度の根幹を深く整合させることのない応急処置のような改正が増えているように感じられます。
 以上4つの共通点としては「敢えて主権を取るものが居ない。または本来担当すべき者でも余力がなく、現状、著作権がうまく運用されていないし、適時改正もされていない」ということが伺えます。
 最後に●5つめとして、一番重要なことですが、社会的要請が私的独占排他権よりも優先されるケースが非常に多いため、一意に善悪の判断ができないことです。次に優先される社会要請の例をあげていきます。
 ・引用。著作権法32条により可能な引用とは「報道・批判・研究その他の引用の目的上正当な範囲内」で「公正な慣行に合致する」との2つの条件が付されており、「正当」「公正」「慣行」の範囲は場合により異なります。引用元著作物が著作権保護をうけているか、引用先での引用の扱いが「公正な慣行」その他の基準を満たすかの判断はシロウトでは判断しかねます。また2項も「広報資料、…に類する」とありひこにゃんゆるキャラのようなものは入るか不明です。
 ・教育。「学ぶ」の語源は「真似ぶ」です。例えば学童は他者の表現物・創作物を教科書や資料として配付し複製させることにより学ばせられています。このため、自然に、教育の現場では複製権・改変権は全く無視されます。これについて、著作権法第33〜35条にも一部規定がありますが、条文が限定的である(「公的教育機関」として主語がごく狭いなど)ため、教育の現場で自由に著作物が利用出来る状態とは言えません。
 たとえば市町村教育委員会クラウドサーバーからの楽曲送信などは問題があるといわれています。しかし、子供達の成長は日進月歩でまったがありません。さしせまった必要があれば、目の前の子供の教育という崇高な目的を達成するために、私人としての自らの裁量権を利用して、実行してしまう教師もおそらくたくさん居るでしょう。
 ・研究、報道もあります。当然ながら私的独占権を配慮していちいち問い合わせては満足な論文や記事はかけません。
 ・試験(36条と似て非なる意味で)。
 京大入試などの受験でネットに問い合わせる知恵袋事件という事件がありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%85%A5%E8%A9%A6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E6%8A%95%E7%A8%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 この事件では、受験生が問答サイトに問題文を投稿し、受験時間内に見知らぬ人から投稿された回答を答案へ書き写すインターネットカンニング行為をしました。この実行者は著作権侵害で裁かれるかとおもいきや、そうではなく偽計業務妨害で罪に問われています。これは、もちろん捜査強制力の違いや罪の重さもありますが、入試問題がそもそも受験者の脳裡に記憶され複製される宿命にある(同様に応答サイトの回答は質問者の自由につかわれる宿命にある)、いわば受験者に対してはあらかじめ非独占的な使用をされる著作物としての慣行があるため、法律上のねじれが生じることを避けたのではないでしょうか。
 他にも「報道の自由表現の自由、パロディ、批判、解説、政治活動、私的契約、図書館法、情報普及圧力、情報公開法」など著作権に優先されている社会的正義が多く存在します(一部は10条や30条〜47条内でホワイトリスト化されており日本型フェアユースともいえるかもしれませんが、すべてが列挙されているわけではなく、どちらが優先かは裁判で判定をまつことになっています)。
 また、他国制度たとえば米国制度(解説・批判・パロディなどのフェアユース)・TPP、逆に中国制度(中国からきてどんなデジタルコンテンツでもさっくりコピーをもっていって公開するユーザーがいますが、このことは中国では違法でないのです)との、すりあわせも必要になります。さらにいうと、特に知的財産権のなかで特許権意匠権、営業秘密などとして確立された知的財産権の独占力は、著作権に優先します。つまり特許権上で発明とされるものは、著作物としての保護をうけられない現状です。これらの他法域とのすりあわせは明文化されているものもあります(例:意匠法の芸術作品除外)し、判例法で運用されているものもあります(例:ゲームソフトの頒布権消尽判決)が、世間(=個人転売者など)にまではフィードバックされていないものも多くあります。
 また、著作権と直接抵触しませんが、表現規制の問題(エロ表現、グロテスク表現、犯罪(再現をふくむ)表現とくに児童ポルノ、個人情報・プライバシーの侵害、危険知識など。「反社会的表現」とされることがある)も創作者にとっては非常にやっかいな問題です。一見して反社会的とみられる表現は、制作に非常な努力と注意を要したものであっても、または注意深く読めば勧善懲悪なり思考実験として表現の価値があるとうけとれるようなものであっても、未成年閲覧禁止の自主規制などにより、メディアへ掲載採用されづらいものです。メディアにもとりあげられなければ著作財産権の行使による成果はありませんので、しばしば公表権や複製権などの著作財産権や、著作人格権までを自主放棄せざるをえず、結果として完成直後から仮の孤児著作物として地下流通することで、かろうじて原稿データの存在および知る人ぞ知る著作の著作者人格権のみを残さざるをえなくなっています。
 
 以上で社会的要請が私的独占権よりも優先されるケースについて長々と述べましたが、現状でこれらの全てが著作権法内の必須判断事項とされているわけではありません。
 現在の著作権の侵害判定部分はごく本質的かつ簡略なブラックリストであり「コピペやなりすまし、ゴーストライターのようなワルイコトをしたらイケマセン」と書いているにすぎないのです。これでは、創作の最前線でスピード競争にいる創作者にとっては不十分です。●1ですでに述べたとおりですが、もしかしたらだれかとネタがカブっているかもしれないが調べる手間暇はかけられないし、もしネタがかぶってもその正当な原作者にあたるかどうかわからない人の同意がとれるかはわからない。著作権については敢えて調べずにあいまいなまま放置しないと、「もしかしたら先行するだれかにとっては都合が悪いかもしれないが、それでも自分なりの情熱をそそいだ新しくて面白い創作」を試みてゆくことができません。しかも、保護範囲が強引に拡大されているのに文言上の統一や改訂がなされていないため、著作人格権(同一性保持権)が委譲できないため著作者の意に添う改変であっても不可能と読めるなど、時代にそぐわない解釈を強いられてしまっており、結果として「敢えて著作権を無視する慣行」さえ発生してしまっています。
 一応は時代の要請に応じて「やっていいこと」を列挙したホワイトリスト著作権法30条〜47条の8の私的利用等、法63条以降の利用許諾)も併用されていますが、これもごく最低限のものであり、悪用をおそれて条件が非常に狭く、またその他の部分とのコンフリクトが整備されていないため、クラウドサービスなどの進化についていけません。
 もし日本国著作権法が外国のCopyrightLowに対応する存在として、今後も「思想・感情を創作的に表現したもの」をあまねく保護する法律でありつづけるのなら、より根本的な部分にホワイトリスト型の規定を加え、もうすこし目的条項などを加えて拡充すべきでしょう。
 根本的とはどういうことかというと、譲渡や利用許諾という煩雑な交渉作業が本当に必要かがまだわからない部分、かつ、30〜47条に「まだ」規定されていない部分についても「最低限の条件をきちんとみたせば、やってよい」と明示されれば、最初は創作者もいささか面倒に感じるでしょうが、今後、より高度なコンテンツ相互利用社会へのインセンティブとなり得るということです。(現在は、すくなくとも作品に署名を書き入れたり、デジタル透かしなどの自己防御手段を採用するインセンティブがマイナスなので、書いたら「らくがきだよ〜」とすぐそのまま創作物をネットに投げ込むような慣行がトラブルの一因になっておりますが、この気軽さは外国ではなかなか得難いことではないかとおもいます)。
 
 ちなみに、産業財産権制度のなかでも古くからある特許権は当初から方式主義であり禁止と権利付与(ホワイトリストブラックリスト)の両面を駆使して権利範囲を明確に(裁判に掛けるまえに)確定させようとしていました。法学者のなかでもややこしすぎると不評の特許権ですが、この制度の利用率が低かったたかというと、現状は著作権よりずっと整備され、出願数も数十万件あり、1980〜1990年代には世界トップの出願件数を誇り、現在でも米国中国につづく世界3位の特許大国でありつづけることができています。やはりややこしくても最低限の基準をしっかりつくっておくほうが、「知的財産の保護および利用」「産業の発展」がなしとげられやすいのではないでしょうか。
 
 してみると、著作権は「基準がややこしくて解析できない。自分は他の仕事があるからできない。他のちゃんとした人がやるだろう。(消極的反対行動)」「ヘタをするとどこか(創作者、司法、外圧、教育、出版など)からのつきあげがくる、やぶへびだ(積極的反対行動)」という改正しづらい状況のまま放置されていたといえるでしょう。とはいえ漫画家赤松健さんを代表者とする団体http://d.hatena.ne.jp/KenAkamatsu/20160113/p1 、山田太郎議員さん、コミケット準備会、青空文庫などの地道な活動はつづいています。TPPという外圧がきたことにより、二次創作者主導とはいえ深く考え直し多少なりとも議論が深まった現在は著作権制度の改正のチャンスといえます。
 
3.著作権法の改正案
 これらの問題をふまえた上で、これからどのような著作権制度が望ましいでしょうか。(すでに従来に比べて方式主義よりの傾向がよかろうという大まかな方針は示してしまいましたが、)著作権制度は具体的にどのように改正するべきでしょうか。
 筆者の考えを順次説明していこうとおもいます。
 弁理士に馴染みの深い産業財産権は相互に似た内容の法律ですが保護対象ごとに4つの法律に分かたれています。そして産業財産権4法で保護対象外になるものは著作権や、不正競争防止法などで保護を受け、問題解決することになります。著作権知財権のなかで一番古く、広く、一番下にあるため、デジタル化が進んだ世の中では知的労働成果物のセーフティネットとしての役割を求められています。
 明治で知的財産法のいくつかが立法されたときにそもそも、知的財産権のなかから、マネタイズ(資金回収)しやすく、独占しやすい産業財産権4法を抽出された時点から、著作権法が一番広い位置にある位置づけですし、外国制度からみても、日本国内の現状からみても、創作物への最終的な救済を求めるにあたっては著作権法を利用すべきです。(実際に中国では商標であるべきだが、ささいな瑕疵により保護されなかった商標案件を著作権で改めてあらそった事件の例もあります)。今後も「知的財産のセーフティーネット」としての著作権の、保護範囲をひろげることを推しすすめるべきだとおもいます。
 実際に、現在も、そして将来とも、著作権は知的創作物の保護権およびコントロール権のうちもっとも広いものとして用いられ、知的労働者のセーフティーネットとして機能してゆくことになるでしょう。その機能を十全に果たすためには、まず、現在の保護範囲定義は不明確にすぎる問題があります。

□1 著作権法第2条1項1号は削除するべきです。
 2条1項1号の前半の「思想または感情を創作的に表現したもの」との定義は、(外国を参照の上で)より広義へと拡張すべきでしょう。この表現のどこがおかしいかというと、「思想または感情」が「創作的に表現する」以前から存在しているものに限定されているため、おかしいのです。
 たとえば、2条1項1号の後半および10条一項には著作権保護対象の基本5項目の例示があり、さらに10条1項9条にはプログラムの著作物が例示されていますが、通常、プログラムそのものは機械的な手段として創作されるものであって、創作者自身が創作時点で特定の「思想や感情」を指向したとは認めにくい性質のものです。そのほか、絵画や音楽であっても、手法そのものをつきつめることで創作を試み、制作できてから「ああこれはこんな感じの感情や思想をかきたてるためのものだったのか」と表現者や社会によってあらためて鑑賞と解釈がおこなわれ、ようやく表現としての地位を確立するという逆転的な創作の流れも現在では非常に多くなってきております。しかも、そういった創作物も現状で区別なく著作物として、複製権譲渡などの契約が結ばれて権利活用されていますので、実際は、10条以降に具体的例示があることで保護対象物の定義としては十分機能しているのだといえます。
 もし、2条1項1号を文言通りに解釈すれば、表現行為をする時点でその目的が特定の「思想・感情」でなければなりません。たとえば「単に新しいソフトをインストールしておもちゃのようにいろいろいじっていたらほぼ偶然の結果自分だけがつくることのできた表現物だが、試しに他人にみせたら『すごくかっこいいから金出して買ってやる』といわれたもの」などは文言上、著作権法2条1項1号の定義にあてはまっていないことになりますね、表現が固定された時点では感情の投影は生起していないのですから。だのに10条では著作権として著作財産権の保護対象として扱われているため、ダブルスタンダードになっており、それだけではなく法廷に出てから齟齬(裁判官との意識のかけちがい)が生じかねないのです。
 なお米国著作権法(101条)においては日本の2条1項1号にあたる著作権の定義はありません。社会で常識的に用いられる、所与の用語のままでよいというわけです。
 また「新聞紙法の第一条において、定義を示さずに「著作物」という語が使われているが、新聞紙法における著作物の意味は、思索考量によって案出された著述だけでなく、時事その他に関する報道も含んでいる (信用毀損及新聞紙法違反ノ件(明治四十四年二月九日大審院判決))。(wikipedia「著作物」より引用)」とか、
 「旧著作権法を起草した水野錬太郎は著書「著作権法要義」において、「著作物トハ[...]有形ト無形トヲ問ハズ吾人ノ精神的努力ニヨリテ得タル一切ノ製作物ヲ云フ」と解説していた。(wikipedia「著作物」より引用)」などという考え方も法的に正当なものとして社会に併存しております。
 したがって、日本でも法律のほうを世間の実情にあわせるべきだということです。二条一項一号から切り捨てられた表現物の一部には10条や12条で別途手当が用意されていますが、これらの、条文中に「2条1項1号にもかかわらず」との文言は存在しないため、現状では二条1項1号の「感情・思想」と2つの条件(ダブルバインド)を課されていることになります。そのためか、10条や12条があっても実際の判例では個々のコンピュータープログラムやデータベースには「創作性」が認められない、著作物性がないとして保護をうけられない判例ケースがでてきています。さらに今後、10条や12条の5項目+コンピュータに列挙されていない新しい形の非感情・思想指向性の創作物が出現した場合は、まず2条1項1号により創作性を否定されてから法改正を待つことになります。これではセーフティーネットとして遅きに失します。
 今後もコンピューターソフトなどさまざまな手法をとりこんで多様に発展するであろう創作活動の成果を、保護対象としてみるかどうかは「思想・感情などの指向がみとめられるかどうか」「創作性がみとめられるかどうか」という恣意的な基準で量るべきではないでしょう。二条1項1号のような曖昧な規定を含む法律であるために、多くの創作物が「著作物にあてはまらない」という判決をうけ、保護をうけられないとすれば、これは不当な差別であります。
 現時点であらためてはっきりと著作物を広義に、非指向性創作物をも著作権の一次的保護対象範囲に含めるように、定義しなおすべきです。
 まずは、著作物の定義である二条一項一号を削除するべきです。または、「著作物とは創作物、および表現物の総称であって…」のようにごくごく簡略化した表現にいれかえても、後述する「著作権で保護されない表現物(ブラックリスト)」をしっかり規定してさえおけば、社会的に、用は足りるはずです。
 もし、どうしても「著作権」の定義を2条に置くことが必要ならば
 『人為的に創作されたものであって、受け取り手(創作者自身を含む)が、少しでも思想、感情、または表現上の有用性を投影し読み取ることが可能なもの、かつ…』
 とか
「創造的な知的生産の成果であって、表現そのものの、または表現創作手法上の、価値(有用性)が少なくとも当業者間で理解し得る状態のもので…」
 なども考えられます。これは、著作権の語意を「社会にまかせる」という条文案ですので、結果的には「全く定義をしないままの米国著作権法」とおなじです。時代によって当然定義の変わる「著作物」をわざわざ法律内で固定すれば今は一見整合したかに見えても近い将来に世間とズレが生じ難解といわれることは必須です。通常の義務教育を受けた者にとって、著作物を著作物とみとめるにあたり、常識を超える特別な定義は必要ないはずです。
 なぜ著作物を2条で定義することで範囲を限定し、縮小してしまったのか、著作物という言葉が人口に膾炙する今となっては、理解に苦しみます。
 また、同様に間口を広げる検討をすべき規定は他にもあります。
 10条2項(事実の伝達にすぎない雑報および時事の報道)を保護対象から除外する必要性がうすれています。一項を丸ごと削除するべきではないでしょうか。たとえば、芸能人のブログで「1月1日、私○○は○○○と結婚しました。」などとの「事実の伝達にすぎない雑報」があった場合は著作権がないと言えるでしょうか。雑報であってもブログ読み物として成立しています。時事の報道も著作権があるのでなければ、個人のツイッターフェイスブックから引用し放題になります。実際、新聞がネット新聞に移行し有料化しているコンテンツには時事報道が多くあります。知的労働の成果と認められる場合は新聞法と同様に著作物としてうけとめ、出所表示などを要する節度ある引用の対象にしたほうが合理的ではないでしょうか。またこれについて実務上自然発生した、30字以内などとの字数の目安がありますがこれも不合理です、新聞見だしをつくる新聞記者やコピーライターなど、短文創作者にも知的労働は科せられているので、その成果を保護するべきです。
 12条の2(データベース)でも「創作性」を必須要件としていますが、これは不要ではないかとおもいます。もしなんらかのハードルを要するとしても創作性という言葉ではなく創造性、新規性および進歩性(特許などその他の法律を参照して)などとするのが相応ではないでしょうか。データベースであれば、技術的に類似度は測れるため、同様のデータベースが複数あれば後発のものには独占権を認めないということだとおもうのですが、創作性という言葉ではこのような規定目的を達成できていません。
 
 □2 著作権者の適格
 著作物の定義を広げると同時に、「自然人」「法人(15,16条)」に事実上限定されている「創作者」においてはこの2つ以外の人格(政府、自治体、動物、人工知能など)も、正当な法定代理人を立て、15条の職務著作に準ずることにより、創作者として扱えるようにするべきです(著作者適格でないという理由で現存する知的創作物が著作物が孤児著作物となることを極力抑制することにつながります)。
 なお著作者適格について争われた米国サル自撮り写真事件について弁理士栗原先生のコラムhttp://bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20160107-00053205/ によれば、「米国著作権庁は(カメラを用意した写真家が自分に著作権があるとした)主張を認めず、著作物としての登録を拒否しました」が次に「(撮影したサル)の後見人となって(中略)写真家側を訴えた(中略)が原告適格なしの門前払い(却下)にならなかった」のだそうです。
 インドには鼻につかんだ筆で(象使いに絵の具をつけてもらい、イーゼルをたててもらって)絵を書くという芸をする象がおります。

 □3 保護対象の範囲外となるものをさらに列挙すべきです。
 さて著作権法セーフティーネットとして十分な広さが確保されたあとは、保護対象外をもうすこし詳しく例示すべきでしょう。
 10条2項、10条3項、12条の2、13条には表現物だが著作権保護の対象外になるものが列挙されています。
 私は、さらに次のものが範囲外となるとして列挙されるべきだとおもいます。
 著作物のうち、「別の法律で保護される著作物」。
 これは法文内で明確に除外条件・移行条件を指定すべきだとおもいます。
 ここでいう別の法律とは、特許法など他の知的財産権です。
 つまり、著作物でありながら発明、考案、営業秘密、種苗、回路図としての他の独占権の対象条件をみたすものは、該当する象徴へ出願された時期以降はその部分は独占権(仮付与のものを含め)が発生し、存続している期間は単体では著作権の保護対象とならないものと明示すべきです。その対象物が特許など独占権の設定登録が受けられないことが確定した時点を著作権の発生日として保護が復活するというふうにしてはどうでしょうか。ただし出願に伴って発行される特許公報自体は著作権法13条の法令・告知などに含まれるとし、別途、国が出版権を確保するものとします。発明などが単体でなく他の著作の一部として含まれるものは著作であることを阻害しないということも明示すべきでしょう。つまり、発明をふくんでいても、全体が創作物として価値があるものであれば、著作物と認めるべきでしょう。たとえば、権利存続中の特許を採録しコメントをつけた「おもしろ発明集」という本などは著作物とすべきでしょう)。
 また、「表現物の発表時点で、当時の常識をもった人間が、表現物から直接読み取れるものを超えた部分は、たとえその後に他の表現物の切っ掛けやインスピレーションやアイデアやヒントになったとしても、その他の表現物にまでは及ばない(将来的に独占することは出来ない)」との規定も入れたほうがよいとおもいます。発展した表現について解釈の中においてアイデアの源流を捜すことはよくなされることですが、表現物は表現物のままにうけとめれば、源流まで発展物のアイデアの成果を分け与える必要はないわけです。この規定は原著作者との名乗りによる将来著作への悪用禁止ということになりますが、現状では二次的著作物の著作権が原著作の著作権に影響を及ぼさない規定(第11条)が存在しています。この条文が大きくとらえられすぎがちなので訂正、削減が必要であるということです。しかしこれらであっても、区別はデリケートで当事者の判断を要するものなので非親告罪化にはみあわないと考えられます。

□4 新たな二次的著作物「二次創作」の定義付をつくることについて
 二次創作とは、最近マンガ・アニメーションの分野でできた言葉で、二次的著作物(?)の創作行為、または、その創作物、をさすものです。
 昔から、ファンになるほど好きな漫画キャラクターなどの似顔絵を描くことは、幼稚園児でも行う娯楽でした。(英語ではその高度な物をファンアート、ファンダム、ファンジンなどと呼んでいます)。21世紀のデジタルエイジに発展しても、スカイプツイッターなど自作の落書きや鼻唄なども交換できるハイコンテクストなコミュニケーションは通常のものであり、安全、安価、そのわりに奥深く楽しみのひろがる趣味です。さらにコミケ文化になりますと、自分が読んで感銘をうけたマンガの読書感想文を書くように、気軽に16ページ程度の短い二次創作マンガやエッセイや戯曲的な小説をコンピューターソフトとペンタブレットで描きあげて、コピーして同人誌即売会で販売することも多くあります(半年に1度のコミケというお祭りの中で延べ3万サークルもの出場サークルがおのおの新刊を発行している現状http://www.comiket.co.jp/archives/Chronology.htmlで、そのサークルの7〜8割程度は二次創作を行うサークルです)。
 この世間ですでに存在する二次創作について、現状著作権法の定義および規制のどれがあてはまるか検討いたします。2項1項11号および27条の「翻訳・編曲・変形・脚色・映画化・その他翻案」という例示のなかでは「脚色」「その他翻案」が最も似ていますが、いずれも元の著作物のストーリ性を変えることなく具体的な表現のみを変更するのに対し、二次創作での変更点は、性別、ストーリーの結末、時間軸(時代)、生物種、服装などを自由に好みに変更する(といっても原作回避を意図した変更ではなく、シロウトなのでうまく真似られず、元々もっていた個性やクセがそのままでてしまい、それを味があるとして受け入れられる部分が多い)ことで趣向をたのしむため、変更対象は非常に多岐に亘ります。
 たとえばディズニー映画の「リトル・マーメイド」はアンデルセンの人魚姫を下敷きにしてはいますが、アンデルセンの原作になかった海産物キャラクター、石像などのエピソードを多数つけくわえた上に、悲恋からハッピーエンドへと大きく変更され、表現としてみれば原作とは全く別個のものとして発展をとげたといえるものです。
 さらに手塚治虫が無くなってからつくられた「ヤングブラックジャック」というアニメーションでは、ブラックジャックが医師になるまえの描かれなかったストーリーを捏造というかでっちあげ、さらにスターシステムにより舞台の異なる別の手塚作品からキャラクターをかり集めて出演させることで、ファンであれば「あのキャラがこの役であるからには今後トラブルを起こすだろう」と予想させるような、ニヤリとする作品にしあげています。これもすでに医師であることが前提の原作ブラックジャックとは全く別個のストーリーであり、名前や時代をずらしただけの焼き直しにはあたりません。いわゆる「公式が最大手」状態、許諾を得ておおっぴらに二次創作をしている状態です。
 この状態を私は、ストーリーの設定とキャラクターのイメージだけを借りてきて、勝手に着せ替えたり違う舞台へ放り込んだり、本来ならやりそうもないことを行動させたりする、いわば大人のごっこ遊び・お人形遊びだとおもいます。そして満足いくまで遊んだ人が十分な表現スキルも持ち合わせていればそれを紙やパソコンに吐き出して表現が生まれることもあるのだというふうに受け止めています。
 してみると、二次創作がただちに現著作権法にいう二次的著作物(翻案)であるとの規定は筆者にはしっくりきません。もっと曖昧な、名義借りのような形かと思います。(ここで利用しているのは後述する「パブリシティー権」それも「キャラクターのパブリシティ権」のさらに二次的パブリシティー権にあたるでしょう。ただ、これは私個人の考えで、常に二次創作に携わる者のなかで、「書いている人は楽しいだろうが、自分は本来のキャラクター性を重んじるため、この部分の変更は全く受け入れられないので名前を借りてやる必要はないと思っているし、もし借りてやるとしても絶対に目に入らないように注意書きやタグを利用して棲み分けさせてほしい」などの意見交換は非常に活発におこなわれています。)
 キャラクターのパブリシティー権を規定する法律は現在存在しないので、二次創作の結末や舞台や雰囲気がどんなに原著作物から大きく発展していても、2条1項11号の規定の「翻案」を常識よりかなり広く解釈することによってまかなわれており、当然に27条、63条に従い、二次的著作物と同様の「原則、原著作者の許諾下に行うべき」「二次的著作物の著作権は原著作権に影響しない」とのルールだけを守るべき…となっています。
 しかし上記してきたように幼稚園児のころから人がキャラクターの似顔絵を描くことやごっこ遊び・お人形遊びのような形で人格をなぞることは、ごく自然な好意の表明であり、二次創作は思考実験であり原作のストーリーを発展させる試行錯誤でもあります。すべてのファンアートをとりしまることは不可能、かつ公益(学習等)にも反します。しかも、米国amazonは二次創作を堂々と販売するようになりました。
「アマゾン、二次創作を公認販売する Kindle Worlds を開始。(二次創作)作者と原作者に支払い」
http://japanese.engadget.com/2013/05/22/kindle-worlds/ ファンアートは、情報公開圧力、読んで欲しい・もっと読みたいという民衆の圧力の対象になっているわけです。
 したがってまずは小規模ファンアートは非親告罪化を決して行わないことが必要になります。
 特に、できれば明示的に、小規模な二次創作は、著作者による別段の規定なく公益にも反しないかぎり無許可で公表することができ、一定の基準(最大でも」原作の最大売り上げ部数の1割程度に届く部数)を売り上げたらその時点で原著作者またはその著作のキャラクターパブリシティ権者(の代理人)との協議により、場合により遡及しないパブリシティー契約を結ぶか、それ以上の二次創作を停止するとの規定(米国著作権フェアユース規定の4号や、フランス著作権のパロディに相当する、日本版フェアユース)を明示的に設けるべきであるとおもいます。
 たとえば、上記米国amazonや、日本でもニトロプラスの非営利的な二次創作許諾基準
https://www.nitroplus.co.jp/license/ のA.以降を参照)
は非常によくまとまっています。創作性がある、直接販売である、売り上げ金額で10万円以下(印刷代を含む)、個数で200個以下との両方の規定を満たすものを無申請で一応許諾する、他の絶対的禁止事項の内容が悪影響が大きいものについては別途判断との基準になっています。また同人誌においてもあまりに大きな売り上げのあるものは税務当局に把握されていることが知られています(同人作家脱税事件)。ここで通常の所得税、消費税の他ロイヤリティを徴集することも有効かとおもいます。
 さらに人件費・加工費をかけて、枠組みや装飾を大きく加工して、セミオーダーやオーダーでの市場販売金額に見合わないような形での加工を行われているもの(大量生産も保存もできないキャラ弁当、カフェラテアート、キャラクターパンケーキ、模造刀、武者人形など)についても、家内消費におさまらず、展示・広告など営業活動に持ちいる場合は二次創作でも見込みの損害金額が高くなるため許諾契約を強制され、全額チャリティオークションであれば予め妥当なロイヤリティ率による許諾契約があるとするのが相当だと考えられます。したがって、小規模なものをあらかじめ二次著作物としての利用許諾とし、大規模でもライセンス契約により利用許諾という規定をつくって利用できるようにしておくことにより、二次創作者と原著作者がwin-win関係になることでしょう。ただし売り上げは二次創作であっても予測できないものであるため懲罰的ロイヤリティはなじみません。

□5 悪質な複製権侵害についての非親告罪化について。
 まず、著作権者が著作物に施した複製禁止手段の解除(コピープロテクト外しツールの提供、著作権法30条2項及び不正競争防止法)は非親告罪化して厳しく捜査すべきです。ところが、非親告罪化すると、刑法第三条および刑法施行法第27条により、海外にいる日本人がコピープロテクト外しをした場合も捜査しなくてはなりません。これは著作権において互恵国待遇の条約をむすんだ国だけに縮小するべきでしょう。
http://av.watch.impress.co.jp/docs/news/20150819_716844.html 初検挙のニュース
http://d.hatena.ne.jp/baba-p/20120621/p2 弁理士馬場伸幸のブログより)

 次に冒認著作物(パクリ)。冒認著作とは、特許法にいう冒認出願からの転用であり、従来の著作権法でいうと複製権侵害、同一性保持違反(=改変)、許諾なしの二次著作物利用(⊂翻案)、著作人格権(氏名表示権および公表権)など、複数の著作権法違反行為を同時に犯している可能性がある著作物です。これは当然ながら、前項で述べた小規模二次創作と重複し得ますが、より悪質性が高いものを指します。「他人の著作物(以下、原著作物という)を公表前または公表直後に入手し、それを無加工、または短時間で自らの創作技術を要せずにできる加工(機械的トレース(写しとり)、液晶画面撮影物、画面キャプチャー、コンサート録音など)を加えただけで、自らの著作物として公表したものです。コピープロテクト外しはプロテクト部分以外はデジタル的に見て全く同じ表現内容が得られますが、冒認著作物もコピープロテクトと同様に、表現上重要でない部分に目立たないノイズが載るだけで消費者には全く同じと感じられるデータになる場合もあります。これらは、個人であればコピープロテクトが掛けられている場合はそれを外してアップロードしたり、コンサート会場に録音機材を持ち込むなどという一般的な契約違反を複数犯していると考えられ、そちらで捜査することもできると思いますので、非親告罪にまでする必要はありませんが、法人または複数人が組織的に行う場合は非親告罪とする必要性が高いとおもわれます。
 また冒認成果であると判明した冒認著作物それ自体が二次的著作物としての地位を得るのも不合理です。したがって冒認由来であることが判明した二次的著作物は、著作権を得られないとして除外した上で、特許の冒認出願と同様の手法での補償を用意するべきです。
 1.配布停止請求(無効審判に相当)
 2.損害賠償請求
 3.著作権侵害の例外として本来の著作者が公表権を回復できる
 4.著作者名義の変更、著作権の移転(この場合は原著作者にパクリ含め全ての著作権が帰属する)
 なお本来の著作権者が公表なり出版権者への投稿をする前に冒認著作物が公表されたときには、どちらが本来の著作権者かが争われるので、冒認行為の客観的な証拠(メールでの自白など)が必要になるとおもいます。
 いちがいに同一といえない「ネタのパクリ」レベルの冒認については一般人というより、ウェブデザインなどでデザインに携わるクリエイティブ人口が増えているため、一般人といってもセミプロの人が存在しています。セミプロまたはプロが指摘作業に加わって善悪判定に一枚噛むという例は増えており、これまでにオリンピックエムブレム問題、漫画家峰なゆかパクリ問題
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1511/24/news101.htmlなどがありましたが、いずれも当事者の一部に私罰感情があると公平性を欠く恐れがあるため、「そのまま利用」したのでないかぎり、非親告罪化はなじみません。

 また、これもままあるのですが、大して似ていないのに、消費者からの指摘を受けた冒認著作者から「私はあなたの著作をマネしてしまいました。謝罪します。必要であれば訴えてくださっても結構ですが、できれば協議だけで済ませてください。」との申し出を原著作者が受けた場合は、原作者は手続きを簡略化させるため、自白にかかる冒認著作物は、協議で合意すれば原著作者および出版代理人の両者の判断により、法的判決を待たずに上記1〜4を与えられる(4により同一性保持権も移動するので、パクリ作品にキャラ解釈などに違いがあれば指図をして治させることができる)、またはキャラ解釈などが全く違うためパクリではない場合、公認はしないが小規模二次創作物としてそのまま持ち主に返し、監視することもできるとすれば、孤児著作とならない合理的・総合的判断ができるようにしておけますので、この点でも望ましいとおもいます。
 なお、今般、マイナンバー制度とマイナンバーカード配布を利用すれば、原著作者の認定が楽になるかとおもいます。代理しようとする者にとって真の原著作者を特定しやすくなれば、代理権者に対してはなりすまし申請がしづらくすることができます。このようにすることも、パクリ対策に有効であるとおもいます。
 
□6 パブリシティー権の保護について
 人権の一部として自然発生した無体財産権の一つに、パブリシティー権(商品化権)という概念があります。
https://www.jpaa.or.jp/activity/publication/patent/patent-library/patent-lib/200905/jpaapatent200905_063-073.pdf パテント誌の論文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E6%A8%A9 ウィキペディアの定義
 パブリシティー権は、人物や動物や物や施設の、写真や影像やイメージ像にのせられた「地位やイメージ、すなわち象徴性=想起力の独占権」であり、肖像権(被写体の権利)の一部を形成するものです。肖像権部分は、有名人などがパブリシティー権を主張することにより、勝手に写真を載せられないばかりか、写真を掲載するにあたりライセンス料を徴収することもあるようです。これは写真分野の著作者(カメラマン)であればよく知られています。
 さらに、昨今は物のパブリシティー権(忠犬ハチ公像)が生じるということで、アニメやマンガのキャラクターについて人間と同様のパブリシティー権を設定するうごきがあります。(キャラクターの立て看板であっても「撮影禁止をお願い」されるとすれば、その根拠はパブリシティー権の自主的な保護にあるものと考えられます)。この項では実在芸能人・動物・アニメなどパブリシティー権(肖像権)の対象になる人格をまとめて「キャラクター」と呼ぶことにします。

 パブリシティー権の本質は商標でいう品質保証機能と同等と考えれば、弁理士からみて理解しづらいものではありません。商標の対象は標章(トレードマーク、ブランド)であり、パブリシティー権は肖像であるだけの違いで、長期にわたって広告やテレビシリーズ放映などの努力により、イメージをつみあげてうまれた顧客吸引力を、そのイメージが顧客に必要とされる限りの長期にわたって保護するという意味でもとめられる保護力は同じようなものです。
 とくにアニメキャラクターやゆるキャラなど架空の人物や、東山動物園のイケメンゴリラ「シャバーニ」などといった動物の肖像の利用権は、新たなパブリシティー権でも設定しなければ非常に保護しづらいものです。なぜかというとまず本人の意思確認がしづらいこと。またたとえば現在の意匠権でも保護できないこと。たとえばあるキャラクターの立ち姿フィギュア人形Aを1種類登録したとしても、ポーズや表情や品目がかわると意匠権保護対象から当然はずれます。(「品目がかわると保護対象がはずれる」場合とはフィギュアではなく建築物になる場合などです。ユニバーサルスタジオジャパン進撃の巨人立像、牛久大仏など巨大な立像も制作されるようになっていますが、建築物は意匠権で保護されないことが法律上明記されています。)
 そして苦労してAの登録がすめば他者による同キャラクターの類似ポーズフィギュアにかかる意匠権取得行為は予防できますが、意匠権の設定登録をすませていない座り姿フィギュア人形、または立ち姿抱き枕カバーや建築物までを独占販売・ライセンス料徴集できる根拠にまでは広げることができません。かといってキャラクターのあらゆる表情やポーズを網羅的に意匠登録しておくことは現実的ではありません(実際は品目ごとに1種類程度おさえておくことさえもせず、全く意匠権を利用しないのが現実的対応でしょう)。
 また、好きなキャラクターを象徴する製品(キャラクターをイメージした食品や香水)、好きなキャラクターと同じ衣装(コスプレ衣装)を販売するにも、あらかじめ、それらの意匠権登録や知的財産権登録まで細かい事前申請はできないわけです。
 このため、ファンの架空キャラクターへの愛着を満たす目的で価値が上乗せされ独自に作成された商品の販売は、かろうじて商標権(作品タイトル)で独占保護するか、または版権契約の契約力で独占保護されているようです。商標法4条1項8号で、他人が商標取得されないことが明示されている「人の名称」に該当するとすれば、芸能人名の商標も取りづらいことになります。
 なお版権とは著作権の旧称であり、現在も「版権絵」のように出版権より広く曖昧な意味で使用されていますがこれもおそらくキャラクターのパブリシティー権を意図しています。 http://www.jbpa.or.jp/agreement-manual.htm
 もちろん版権契約を交わせれば混乱を予防し、キャラクターの人格の統一性を保ち、著作者の意図をすべて反映させることができますが、「特段の契約を結ばない人にまでは拘束力が及ばない」ので、契約を結ばない人、もっといえば中国のコスプレ制作工房が勝手に衣装を創作してヤフオクなどでおおっぴらにオーダー受注、販売されております。マナーのよいファングループ内では公式の版権商品以外には手を出すまいという動きもありますが、結局内輪のルールにすぎず、「我関せず」の外部者がアニメーション制作の資金回収には影響しないところで商売をされてしまうわけですと、アニメーション業界の育成にとってもおかしなことです。この例をみるまでもなく、版権、つまりパブリシティー権への、なんらかの保護は必要です。
 なお不正競争防止法の周知表示混同惹起および著名表示冒用はキャラクターパブリシティー侵害にもよく適用できそうだと考えがちですが、アニメーションの場合アニメファンにしか知られないことが多く、また保護期間も市場出現から3年と著作権に比べて非常に短く、しかもサイン色紙などの著作物は表示そのものにしかならず別途商品を必要とすることになりますので、実際はキャラクター玩具パッケージ以外の著作物に不正競争防止法を適用できる例は少ないです。
 となれば、新たな版権=一群のパブリシティー権(人の肖像権、物の肖像権、人格をあたえられたキャラクターの肖像権、未だ登録していない区分の商標権などを含める使用許諾権)について著作権内(または新設肖像権法)に条文をかきおこすべきです。また、契約でパブリシティーの一次的権利は意志が確認できるかぎりその本人、意志が確認できないとしてもその法定代理人なり法律的保護者、にあるとするべきです。
 仮定の話になりますが、このパブリシティー権が、すでにある著作権(楽曲、写真)と芸能人の実演家としてのパブリシティー権が同等の権利として交換ライセンス交渉できる形に法制化されておれば、今般社会問題となったジャニーズ事務所からのSMAPの移籍も、本人たちの意図をより尊重する形で交渉を進めることができたのではないでしょうか。惜しまれてなりません。
 またこのとき、小規模なパブリシティー侵害(たまたまみかけた芸能人をシャメるが配布はしない、二次創作をする、キャラを模したケーキや弁当をつくるなど)は上で述べてきたように、あらかじめ許諾される方向であるべきなので、著作権内にパブリシティー権の例外として規定しておくほうが権利調整がしやすく合理的であります。もしこれらを著作権法以外の法律で規定する場合はキャラクターの肖像権の保護力は著作権の私的利用にまでおよばないとする調整規定が必要になります。

 以上は著作権そのものと二次創作に関するものです。それ以外にもまだ必要とかんがえられる部分があります。
 
□7 著作権に新しい分類を設け、整理しなおす
 比較的優先度は低いですが、著作権が「著作者(auther、小説・脚本型ストーリーメーカー)」の保護にはじまり、法律全体がその当時の用語に縛られていることで、米国Copyright(複製権)とは異なる名称を採用した不具合がでています。
 一つは、著作人格権における著作者と実演者との区別が感覚に合わないものとなってきています。初回録音を行う「レコード製作者」や「カラオケを歌っている人」には「実演者」としての権利が付与されるが、録音機器は今やどのような人間でも手に入ります。一方でマンパワーや知的労働が必要となる編集者・編集アドバイザー・校閲者・装丁デザイナーなどには「実演者」なみの権利も存在しないのは少々片手落ちではないでしょうか。また、ブログサービスなどは規約や常時配信、サーバー維持、公序良俗違反ユーザーの権利停止などといった諸活動によりユーザーの文章制作環境、発表環境をととのえ、事実上導いているので「配信者」にも実演家として内容に干渉できる権利を認めるべきではないでしょうか。
 つまり著作権者と実演家の種類を見直して、必要に応じた権利を付与するのが妥当といえます。また同時に著作権者(著作財産権者、著作者から複製権などを譲渡された者)と著作隣接権者(実演家から財産権を譲渡された者)も不当に区別されているといえます。この用語はできれば改正する(例えば私案としては著作権+実演家権の総称→コンテンツ権、うち人格権の部分→クリエーター権、著作財産権+著作隣接権→エージェント権としてあらためて分類や取り扱いをみなおす)のも一案であるとおもいます。
 
□8 職務著作(15条)についてのさらなる法的整備。
 アプリゲームのプログラマと絵かき、映画、「制作委員会」型アニメーション、漫画家と漫画原作者とアシスタント…など複数の創作職業が携わってチームで創作を行う場合職務著作が選べます。しかしあまり利用されていない業界があります。職務著作はチーム制なので、息の長い創作物を作れる可能性が高いが、職務著作の利益および制限があまりはっきりしていないのが現状です。たとえば「法人等」に正社員として所属していなければ職務著作にならないとの考え方も広いですが、実際は指揮監督下にあればフリー創作者でも派遣でも職務著作と考えてよいとの運用も広くなされています。しかし共同チーム型職務著作へのフリー創作者のインセンティブが少ないのです。 したがって、職務著作の定義を一次契約であるものも含むと明示し、さらに、チームがその著作物の続編創作を存続する限り、著作権存続期間を50年から(医薬特許のごとく、申請により)公表後70年へ(又は70年から100年など、さらに年金を支払って)延長可能とすることでインセンティブを与えることなどが考えられます。ただしこの場合は個人著作者の所有物としての相続などはできなくなりますが、現時点で「買取型」とされる著作人格権を全く無視した著作権許諾契約が横行していることを考えれば、職務著作内に買取型での参加者もむしろ必須とすることにより、意志統一した創作環境がつくられることになります。
 なお宇宙英雄ペリーローダンシリーズというSF小説文庫本は、1961年に第一巻が発表されました。現在にいたるまで執筆者が交代しながら、2500話、日本語版で500巻以上も発行されている、SFとしては世界最長シリーズです。こちらを50年とすると2011年に初版の著作権が切れますが、現在1980年原語版以降が未翻訳であることを考えると遠大な計画が必要です。
http://homepage2.nifty.com/Tetsutaro/Category/Category10R.html#500-509 )
 この制度をうまくつかえば、企業倒産などにより発生する孤児化した職務著作物の一部が解消し、マイナンバー制度と併用することで個別著作者の年金収入が発生することとなります。(なおロイヤリティ支払いや許諾作業が不明瞭になる孤児著作物には、作者不明のもの(したがって死亡時期が不明のもの)と、公開開始時期が不明のものと2種類があり、一部は裁定により許諾とみなされ使用開始されます)
 著作人格権の移動について。ひとたび職務著作者(法人・グループなど)に譲渡した作品は、著作人格権のみならず、作品内容の正当な解釈権(肖像権・パブリシティ権の一部として)も移動するとの規定が必要かとおもいます。
 またチームから離脱した個人が自らの画風で別個の著作を制作する場合は、チームの有する原著作のパブリシティ権を損ねないかぎり、二次著作や冒認著作としてのしばりをうけない別個の個人著作物と認められる運用も必要かとおもいます(ひこにゃん事件)。

□9 60条の著作権の消滅を削除、第13条の権利目的除外規定を削除
 著作権は一度著作権者が死亡し相続者があらわれなかった場合は、「権利が消滅」するとかかれているが、消滅は不可逆的な処理であり、孤児著作物はフリー使用できるとなれば、特に職務著作の法人倒産などで不都合が生じます。もしだれも立候補しなければアーカイブ組織(国会図書館など)を法定代理人とすべきである。そして少なくとも奥付のある個人出版物程度であれば追跡できるようにするべきである。
 国の管理する創作物データには、特許公報などもあるかとおもいます。これらも著作権外とせず、原則として著作権は存するが、権利制限の例外(検閲不可能、情報公開拒否不可能)となるという形であつかうべきではないでしょうか。当初より「権利の目的となることができない」との規定があれば、啓発ポスターなどに対して公序良俗に反する加工がなされた場合、著作権者として親告罪咎めることができにくいです。(ポポポポーン事件)
 
□10 チーム著作者および配信者の責任と権利を明示するべきです。配信者とは、予めある程度の複製権を預託されている著作財産権者のことです。
 グーグル(YouTubeを傘下におき、コンテンツ配信の最大手となっています)のみならずGitHubなどの配信者が知的財産上有用であることは論をまちません。彼らは表現規制ゾーニング、配信コントロール。違法者には配信をしないなどを自主規制して合理的な局地的社会ルールを作成しています。またサイトにかぎらず
配信者以外にも、
クリエイティブコモンズライセンスhttp://creativecommons.jp/licenses/
二次創作利用可マーク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E4%BA%BA%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF
自由利用マークhttp://www.bunka.go.jp/jiyuriyo/
といった予め許諾を表示する方法が自然発生しています。
 これらは各方面(サイト管理者など)へむけた権利調整ガイドラインを作成し普及する努力をしている団体であり、著作権と一般ユーザーの親和性を高めているといえます。
 責任については放送法プロバイダ責任法などがすでに存在する。またコミケの参加規約(わいせつ図画頒布禁止、コスプレにおける露出やながものの禁止、肖像権の尊重など)ルールがこなれて成熟しているが、この成熟を支えているのは、責任ある配信者の怠らぬ勉強および配慮です。DDoS攻撃やコミケ会場爆破予告などの不法な攻撃や不法コピー配布にたいして保守、警備を負担しており、著作物の適時供給およびマネタイズに多大な労力を払っているのに、荒しユーザーの著作権がその役割と衝突すれば、正面からサービスを取り上げることができないとすれば不合理です。
 荒し対策、捜査協力、報道の自由、利益分配用アクセスログデータ保持などの正当かつ公益に適う目的および事前の利用規約があれば、著作人格権(公表権など)、私的契約の停止にあたっても著作権侵害行為(フィルタリングなど)を行うことができることをプロバイダ責任法のみならず、著作権法内に明示すべきではないでしょうか。ただし検閲はすでに憲法で禁止されています。
 情報流通管理権、荒しは非公開とする、その場合の著作権を放棄させるのではなく一時的に非公開に移管し、当人には返却できることが必要です(ツイッターコンテンツの削除についてのユーザーコメントhttp://blog.tappli.com/article/69534410.html。 DCMA法https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%A0%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E6%B3%95

 また、著作権は生まれた以上は消えるべきものではありません。社会の公益がうつりかわるので、公開しない秘蔵物として、保存貯蔵施設としてアーカイブを作成し、複製権制限の例外をあたえて保管し、特許でいうJ-Platpatのように著作権利侵害の証拠品として活用すべきでしょう。
 プロバイダ責任制限法で、ログが保存されていることはこの予備的な状態でしょう。
 またスマホの普及、ユビキタス化、コモデティ化、無料化、クリエイティブコモンズライセンス化、インデックス化を大正義にかかげたインターネット(グーグルなど)の情報普及圧力により、著作物のうちネット投稿著作物の著作権が事実上放棄されているものとして、または保留されていることも挙げられます。

□11 分割管理の推進
 現存する著作物のうち、確立したメディアジャンルの区分ごとに分離し、抽出し、統合し、管理者を切り分けるべきでしょう。そして著作権について勉強し、著作者へ公平な利益分配を行える権利管理者が存在する分野の著作物(たとえばJASRACの存在する楽曲著作物分野など)については保護方針の指導および改正をより早急に勧めるべきである。そうすることにより、そのジャンル内の保護対象をアップデートしやすくでき、私的利用の例外の範囲も広げる方向ならばアップデートしやすくする、また私的録音録画補償金(預託金)のような形で孤児著作にも仮保護権が生じるというインセンティブをつけることができます。たとえばJASRACのような団体がある創作分野の場合のみ、権利保護対象や私的利用の例外の範囲を省令委任事項などとすることで、いちいち国会での審議を経ることもなく新たな電子メディアや課金形態が出現したときに法律側をアップデート可能となれば、十分インセンティブの効果があると考えられます。

4.著作権の未来〜デジタルコミュニケーションを支える著作権
 現在の日本では創作は教育と娯楽を兼ね備えるアウトプット作業となっています。スマホなど手軽な機器も広まったため、少し知識がある人なら手軽に作品レベルの表現作成に手をそめられ、また実行しています。(ラインスタンプ、e-同人誌、ユーチューブのTED講義や化学実験講座、wikipedia青空文庫、果てはクックパッドお絵かき掲示板など)。アウトプットたる作品の投稿を受け付け、公開するインターネットサイトは、どのサイトも、投稿者に著作権法の遵守を含む利用規約で投稿してよいものといけないものを理解させようとしていますし、規約でも著作権法でも足りない部分には自発的自治ルールが発生してそのサイトに独特の「雰囲気」をつくっているのも興味深いです。
 
 デジタルエイジにとって、創作行為は職業訓練でもあり、ハイコンテクストなコミュニケーションでもあり、非常に安全安価かつ奥深い趣味です。コミケ文化を例にとりますと、読んで感銘をうけたマンガの、読書感想文を書くような気軽さで、16ページの二次創作マンガやをコンピューターソフトとペンタブレットで描き上げ、コンビニコピーまたは自宅印刷で複製し、たまたま近所で開催されていた同人誌即売会イベントで原価販売または無料配布する若い人が増えています。従来であればかなり高価であったトーン貼りや写植といった手法も「ちょこっとスマホアプリやフリーソフトをつかって加工すればイイダケ」と捉えており、その気軽さは著作権法の作成者の想像を遙かにこえています。同人誌印刷を趣味とすることによりアドビフォトショップイラストレータやこれらに類似するグラフィック加工ソフトが「個人ユース」でこれだけ普及しているのも日本ならではでないでしょうか。

 このような世の中では著作者の公開意図もピンからキリまでオールバリエーション存在します。
 明治の著作者は大家・文豪タイプでした。これらの著作者が保護を要求する対象はまずは人格権による個人の名誉・名声の保護、次にマネタイズでした。
 しかしデジタルエイジの著作権者(というより、コミュニケーション者)は彼らとは違ったものを望む場合も出てきています。食い扶持は別のもので稼ぐため、円滑な社会生活やコミュニケーションが阻害される(へんな人が見に来て画力をねたんでストーキングされる)くらいであればマネタイズも個人の名声も不要。孤児著作物にしてしまうどころか、すこし古い絵は技量に劣って恥ずかしい(黒歴史)から自分で直視することもできないといいながらピクセル一つ残らず消すという人も一定数存在するのです。それが一般的にみれば十分収入につながるレベルであってもです。(まあ、昔から気にくわない焼き上がりの壺をたたき割る陶芸家などもいたようですが、若くてつたない人でも向上心と創作者の気むずかしさをあわせもつ場合があります)
 キリ側の著作者にとって望ましい著作権のあり方の一つは、「人間関係コントロール権」です。公表したあともいつでもひっこめられ、複製無断使用はされてもいいけど自分に好意的な友人候補だけをひきよせてくれ、対人関係トラブルを防止できること。
 また著作権フリー素材、フリーフォント、フリーウェアというものをつくって投稿する人もいます。現在は、法律上「著作権フリー素材」などというものは存在しないはず(著作人格権は委譲できない)なのにです。
 特許が切れてから安価なジェネリック医薬品がよりいっそう人類社会に発明の利益を還元できるように、著作物も他人によませて共感を得て、ミームリチャード・ドーキンス博士の提唱する文化子。遺伝子に対応する)そのものを広めてこそ作品そのものがいつまでも世の中に残り、人類全体の役にたつため、やりがいがあるという考え方もあります。「ミーム権」と名付けましょう。(もちろん、訓練をかねて試用品をつくっただけで、高品質なミームをつくってからもとをとるつもりなのかもしれませんが)
 「人間関係コントロール権」「ミーム権」は著作人格権と直接抵触します。つまり著作人格権は著者が生きている限り、著作人格権(公表権など)が委譲も代理もできないとなると、過度に独占的な法律となっており、創作者の性格によっては著作権を丸ごと無視・放棄してしまう(孤児著作を乱発し、権利消滅させ、あとで悪質複製者に悪用されそうになってから著作権者の地位を回復しようとしてトラブルになる)要因になる可能性を内包しています。
 そして、このユビキタスな世の中では「人間関係コントロール権」「ミーム権」の著作権は、よりスムーズな、相手を尊重するマナーの一種としての「利用規約」という形で自然発生し、進化しつづけています。
 自然発生型の著作権契約の例としては、GoogleのSEO(サーチ順位向上)とグーグル八分(検索範囲から除去される。村八分から転用された言葉)、:初音ミクルール(閲覧者にソフトの購入を推奨していた):http://d.hatena.ne.jp/KenAkamatsu/20160113/p1これらは、著作権が非申告罪であることを前提にして、グレーゾーンを手探りしながら発展してきました。
 逆に、「空気読め」「気にくわない表現者には荒らし行為」「3年ROMれ」「ググレカス」のようないびつなマナーもでてきています。とくに、二次創作の自主規制はいびつになりがちで、「伏字マナー」「タグ付け」「二次」「年齢制限」などでぽこぽこと新説が出来てはつぶしあう状態となっています。

 著作権は「実務者だけが適宜ねじ曲げられる法律」から「小学生でも直感的にわかる法律」へかわらなければなりません。すなわち、著作物のコントロール権は公益を害しないかぎり著作者本人にあるということを明確にするものでなければなりません。おそらく、子供にとっての著作権は最初は「マナー」「迷惑をかけない」「本人の意図を尊重する」等のぼんやりとしたルールとしてしか理解され得ませんが、その間にも子供は日々著作物としての図工や工作、作文をつくって、創作を実践することにより学んでいます。著作権は表現とその創作者を尊重する精神そのものの具現化でなければならず、しかもデジタルエイジでは、1対多から1対1へシームレスにひろがるコミュニケーションを阻害せずに保護するものでなければなりませんし、もちろん教育の場でも堂々と(自分はプリントを作成するときに著作権を違反したのではないかなどとかんがえずに)教えられるものでなければなりません。
 
堂々と子孫にのこせる著作権を望みます。  (終わり。初稿2016/1/19、二稿2016/1/28)